「今、すごく疲れてるけど、まだやることがある」
「気持ちが焦ってるのに、体はうまく動かない」
そんなとき、あなたならどうしますか?
……わたしは、急須を取り出して、お茶を淹れます。
湯気が立ちのぼるのを待ちながら、
音に、香りに、ひとつずつ五感を重ねていく。
何も“解決”しないかもしれないけれど、
その数分間だけ、心のざわつきがすっと静かになるんです。
お茶を淹れる行為は、ただの飲み物づくりじゃなくて。
「整える」ための、小さな儀式なのかもしれません。
今日は、そんな“お茶時間”がくれる静かな効能について、
あなたといっしょに見つめてみませんか?
目次
焦りが残る日は、無理に切り替えない
朝から予定が詰まっていた日、
人と話し続けて気が張っていた日、
家事も仕事もぜんぶ「こなした」のに、
なぜか心の中だけ、まだざわついている──
そんな状態のまま、
「次にいこう」「もう終わったことだから」って
無理に切り替えようとすると、逆に心が疲弊してしまうことがあります。
わたしたちの“感情”って、
意外と身体よりも遅れて動いているのかもしれません。
身体はもう帰ってきてるのに、
心だけがまだ“戦場”にいるような。
だからわたしは、そんなときこそ──
急須にお湯を注ぎます。
器を手に取る音、
茶葉がひらく香り、
湯気のやわらかな立ちのぼり。
そのひとつひとつが、
心をそっと呼び戻す合図になるんです。
「もう走らなくていいよ」
「いったん、ここに戻っておいで」
お茶を淹れるという行為は、
ただの準備ではなく、
“わたしをわたしに返すための時間”なのだと思います。
焦っているときほど、
その数分の“間”が、何よりの薬になるのかもしれません。
急須にお湯を注ぐだけの行為がもつ意味
ただ、お湯を注ぐ。
それだけのことが、どうしてこんなにも静かな力を持っているんだろう──
急須の中で茶葉がふわりと開いていく様子を眺めていると、
焦りや緊張でぎゅっと固まっていた心が、
少しずつほどけていく感覚があるんです。
お湯を注ぐ「音」に耳を澄ますと、
それはどこか雨の音にも似ていて、
心のノイズを静かに打ち消してくれる。
香りは、呼吸を深くしてくれるし、
湯気の温度は、手のひらに“今ここ”を教えてくれる。
それら全部がそろう場所に、
わたし自身がようやく立ち戻れる気がするんです。
そして何より──
この“ひと手間”を自分のためにかけることが、
「わたしは、ここにいていい」って
小さく肯定してくれているようで。
完璧なやり方なんていらない。
茶葉は少しくらい多くてもいいし、
湯温だって毎回違ってもいい。
でも、そこにあるのは、
“わたしのために注がれたお湯”であり、
“わたしが淹れたお茶”であること。
その確かさが、心を静かに整えてくれる。
──今日も、わたしは、
この小さな所作のなかで、
“生きてる”ってことを、ひと口ずつ味わっているのかもしれません。
何も話さない時間が必要になるとき
言葉がうまく出てこない日があります。
誰かと話す気力がわかないとか、
なにを言っても空回りしそうで、
そのまま黙っていたくなるような、そんな日。
「話さなきゃ」「伝えなきゃ」って思うことすら、
しんどく感じるときって、ありますよね。
でも、そういうときほど、
わたしはお茶を淹れるようにしています。
お湯がふつふつと湧いて、
急須の中で茶葉が音を立てずに開く。
湯気が立ちのぼるその静けさに、
“話さなくても整えられる空間”が、そっと広がっていくんです。
誰かにわかってもらうための言葉ではなく、
なにかを生み出すための思考でもなくて。
ただ、自分のためだけに湯を注ぎ、
湯気を感じて、ひと口ずつ味わうだけ。
そういう“言葉のいらない時間”が、
わたしたちの心を、いちばん深い場所からほぐしてくれることもあります。
たとえば──
言いたいことがあるのに言えなかった日。
誰にも見せられない涙がこぼれそうな夜。
そんなとき、お茶は、
「話さなくていいんだよ」って、
そっと隣にいてくれる存在になるのかもしれません。
言葉でつながるのではなく、
湯気の向こうで、
自分の気持ちと静かに出会いなおす。
お茶の時間って、
そんな“沈黙の贈り物”のようにも感じるのです。
お気に入りの茶器と湯呑みを選ぶ意味
お茶を淹れるという行為は、
ただ“飲むため”だけではなくて、
「どの器に注ぐか」というところから、すでに心の動きが始まっている──
わたしは、そう感じています。
どんな色にしよう。
今日は磁器のカップにしようか、それとも手ざわりのやさしい陶器にしようか。
器の厚み、重さ、手になじむかたち。
……その“選ぶ”という一瞬に、
わたしの気分や体調、感情の輪郭が反映されている気がするんです。
たとえば、
少し沈んだ日は、淡い白茶色のやわらかい湯呑みを。
背筋を伸ばしたい日は、藍色の深みのある器を。
春には桜の模様、秋にはくすんだ柿色。
季節と心をそっと映す小さな鏡みたいに、
その日の自分にぴたりと寄り添ってくれる器たち。
お気に入りの茶器を使う日は、
何でもないお茶時間が、
すこしだけ特別な儀式になります。
それは「誰かに見せるため」の華やかさではなくて──
「わたしだけが知っている、わたしのための選び方」。
忙しい日々のなかで、
自分にちゃんと気づいてあげるための行為。
だからこそ、お気に入りの器を選ぶというのは、
小さな自己肯定そのものなんだと思います。
今日のあなたには、どんな湯呑みが似合いそうですか?
“儀式”があるだけで、暮らしが軸を持つ
特別な予定がない日。
外に出る気力もなく、家の中でぼんやりしていた午前中。
そんなときでも、お茶を淹れるという“ひとつの儀式”があるだけで、
わたしの暮らしは、どこかでちゃんと**「軸」を持っている**と感じられるのです。
忙しさに流される日々のなかで、
「今日は何をしたか」ではなく、
「どんなふうに自分と向き合ったか」を確かめるように。
お茶を淹れるという行為は、
時間をかけてなにかを作るわけでも、
努力を要するものでもありません。
でも──
「これをやると、心が少し落ち着く」
そんな“自分なりの決まりごと”があるだけで、
暮らしの中に、揺れない芯のようなものが生まれるんです。
それは朝の歯磨きや、寝る前のストレッチのように、
健康のためという目的を超えて、
“心の輪郭をなぞりなおすための動作”になる。
コモチにとって、それが「お茶を淹れること」でした。
あなたにとっては、何かほかのものかもしれません。
でも、誰に見せるでもない、
自分のためだけの静かな儀式を持っていること。
それだけで、日々の揺らぎに、
ふと足をつけ直せる気がしませんか?
「なんとなく整っている」という感覚。
そのやわらかい実感が、
これからの暮らしを、そっと支えてくれるのだと思います。
何度でも“お茶を淹れるわたし”に戻る
うまくいかなかった日。
誰にも会いたくない夜。
理由もなく涙が出そうになる夕暮れ。
どんな日であっても、
わたしは、台所に立って急須を手に取る。
お湯を沸かし、茶葉をすくい、
静かに注ぐだけの、その行為へと帰ってくる。
──そうしてまた、“お茶を淹れるわたし”に戻る。
この時間は、なにかを頑張ったご褒美ではなくて、
元気になったときだけ許されるものでもなくて。
どんな状態のわたしでも、
どんな心のかたちでも、
「ただいま」と言える場所として、そこに在りつづけてくれる。
お茶の味は、毎回ちがってもいい。
器が少しかけていても、茶葉が多くても。
そこに込める想いはひとつ。
「わたしを、少しだけやさしくする時間にしたい」
お茶を淹れるだけで、
完璧じゃない自分も、うまく言葉にできない感情も、
そっと受け入れられる気がしてくる。
それは、大げさな癒しではなくて──
“ふと戻れる場所”としての儀式。
今日もまた、
急須にお湯を注ぎながら、
わたしは静かに呼吸を整えていきます。
明日もきっと、
何度でも、
“お茶を淹れるわたし”に戻ってこれるように。