「早く済ませることがいいこと」──
そんなふうに思っていた時期が、わたしにもありました。
朝の支度も、食事も、掃除も、
とにかく“早く・効率的に・ムダなく”動くことが正義のように感じていた毎日。
たしかに、
手早くこなせるのは便利で、
気分も軽くなる瞬間はあったけれど……
でもある日、
何も予定のない休日に、ゆっくりお茶を淹れて、
湯気を見つめていたら──
「あれ、わたし、暮らしてなかったかも」って、ふと思ったんです。
「こなす」ことばかりに気を取られて、
「感じる」ことを、ずっと忘れていた。
そんな気づきをくれたのは、
たった一杯の、温かい飲みものと、
その時間に漂う、ゆっくりとした空気でした。
この回では、
“時短”の向こう側にある、本当のわたしのペースについて、
コモチと一緒にそっと見つめていきましょう。
目次
「早く終わらせる」が口ぐせになっていた
「早く済ませちゃおう」
「さっさと終わらせなきゃ」
いつからか、それがわたしの口ぐせになっていました。
仕事、料理、洗濯、片づけ……
毎日のことだから、
効率よくこなせるのは“いいこと”のはずなのに──
気づけば、
やることに追われているような、
どこか余裕のない気持ちばかりが積もっていって。
それでも「早く、早く」と急ぐのは、
たぶん、“何かを忘れてる不安”を紛らわせるためだったのかもしれません。
頭では“時短”をしているつもりでも、
心の奥ではずっと、
「本当は、もっと感じたい」って思っていた自分がいたんです。
たとえば──
朝の光のあたたかさ、
湯気が立ちのぼる瞬間、
季節のにおいや、台所に立つときの音。
そういう“暮らしの気配”を、
見ないふりをしていたのは、他でもないわたし自身。
だから、ふと立ち止まれたとき、
こんなふうに思いました。
「早く終わらせる」ことばかりが、ほんとうに“正義”なのかな?
……もしかしたら、
それは“やさしさの速度”を忘れてしまう罠かもしれないって。
“手間をかける”ことがもたらすもの
便利な道具も増えて、
なんでも“ボタンひとつ”で済む時代。
だからこそ──
あえて手間をかけることに、特別な意味が宿る気がします。
たとえば、
ほんのひと手間だけれど、
昆布と鰹節でだしを取る朝。
ゆっくり野菜を刻んで、
火の入れ方を見ながら炒める夕方。
洗濯物を一枚ずつ畳んで、
柔らかい布の感触にふっと気持ちがゆるむ夜。
それらはどれも、
“結果”だけを求めたら、
ショートカットできる作業かもしれません。
でも、
その一つひとつの“手をかける時間”の中にこそ、
心が今ここに帰ってくる“感覚”がある。
つまり、
「わたしは、ちゃんと暮らしている」
という実感。
焦らず、急がず、
目の前の作業に静かに集中していると、
余白の中に「生きてる音」が聞こえてくるんです。
それは、
効率とは別の価値。
手間をかけることは、
わたし自身の“存在”を確認することでもある──
そんなふうに思えるようになりました。
時短=自分を後回しにすることもある
時短って、とても便利で、
忙しい日々の中ではありがたい工夫のひとつ。
でも──
それが習慣になりすぎると、
“自分の感情”まで短縮してしまうことがあると思うんです。
たとえば、
仕事帰りにコンビニで済ませた夕飯。
レンジで温めて、さっと食べて、片づけもすぐ終わる。
それはそれで、いい日もある。
でも、気づいたら心の中に残っているのは、
「こなした」という空白だけだったりして。
味も記憶も、
たしかにあったはずなのに、
どこか“通り過ぎてしまった感覚”。
そしてその感覚が、
だんだんと積もっていくと──
「わたしは何を食べたんだろう」
「今日、ちゃんと休めたのかな」
“わたしがここにいた”という実感が、
うすれていってしまう気がするんです。
だから、思うのです。
時短そのものが悪いのではなくて、
「全部を早く済ませようとする癖」が、
わたしを自分から遠ざけていたのかもしれない、と。
急ぐことで失われていくもの。
それは、たぶん
“心がそこにあった証拠”なのかもしれません。
コモチの“ゆっくりスイッチ”の入れ方
「急がなくてもいいんだよ」って、
自分に言ってあげられる日が、
以前よりすこしだけ増えてきた気がします。
でも、そう思えるようになるには、
ちょっとした“仕掛け”が必要でした。
たとえば──
お湯を沸かす音を、ちゃんと聴く。
しゅんしゅんと鳴りはじめる音に、
呼吸を合わせてみる。
器を一枚、ゆっくり選ぶ。
どれにしようかな、って考える時間が、
そのまま自分の速度を整えてくれる。
ほんの小さなことだけど、
その“ひと手間”が入るだけで、
わたしのなかの“せかせかスイッチ”がオフになるんです。
逆に言えば、
どんなに疲れていても、
そのスイッチさえ入れば、
ちゃんと「暮らしている感覚」が戻ってくる。
だから、
忙しい日こそ、
あえて「ゆっくりできる装置」を暮らしに置いておくこと。
それは、大きな家具でも、特別な道具でもなくていい。
好きな茶葉の缶でも、
手に馴染む湯のみでも、
朝の光が差し込む台所でも──
「ここに立つと、わたしは“ゆっくり”に戻れる」
そんな場所と習慣を、
ひとつでも持っていることが、
きっと“速すぎる日常”から身を守る、やさしい術になるのです。
「急がない」ことで見えることがある
ちょっとだけ、いつもより歩くスピードを落としてみる。
それだけで、
世界がすこし、やわらかくなることがあります。
窓の外の木が色づきはじめていること、
台所に射し込む光が、少し傾いてきたこと。
急いでいるときには、見えなかった景色が、
“わたしの暮らし”の中にはちゃんとあったんだと気づかされる瞬間。
朝の空の色、
湯を沸かす音、
寝起きの身体の重さ。
それら全部が、“生きてる”ってこと。
暮らしのなかにある、かすかな体温みたいなもの。
わたしはいつも、
それを無意識に置き去りにしていたのかもしれません。
「早く終わらせたい」って思う日だって、
もちろんあっていい。
でも、
急がなかった日の“静かな充実感”を、一度でも知ってしまうと、
きっとどこかでまた、それを求めるようになる。
そうやって、
早さと遅さのあいだを、
“わたしのペース”で行ったり来たりできることが、
暮らしを守るリズムなのだと思うのです。
“暮らしの速度”は、自分で選べる
いつも“早く動くこと”がえらい、
“時短が正義”って、どこかで思い込んでいたけれど──
ほんとうは、
その日その日の“暮らしの速度”を、自分で選んでいいのだと気づきました。
たとえば、
気力がある日は、テキパキ動く。
すこし疲れている日は、あえてゆっくりする。
どちらも「ちゃんとしてる」自分。
片方を否定しなくてもいいんです。
「今日は、あえて時間をかけよう」
「今日は、ちょっと手を抜こう」
その選択を、自分の手に取り戻すこと。
それが“自分らしい暮らし”を築く一歩になるのだと思います。
そして、選んだ速度の中で、
五感をひらいて暮らしてみる。
湯気、手ざわり、音、呼吸。
時間の流れに飲まれず、
自分で舵をとっているという感覚が、
わたしという存在の輪郭を、もう一度やさしく描きなおしてくれる。
速さも遅さも、
どちらも「今のわたし」から生まれるリズム。
だから、今日のあなたの暮らしの速度も、
誰かと比べずに、大切にしていいんです。