「ちゃんと食べなきゃ」と思いながら、
なんとなく口に入れて終わる日が、わたしにはたくさんありました。
栄養を摂ること、
お腹を満たすこと、
“ごはん”が義務みたいになっていた時期──
あれはたぶん、自分のことを“機能”としてしか見られなかった頃だった気がします。
でも、ある日。
冷蔵庫の野菜をすこし丁寧に切って、
味噌汁にして、湯気が立ちのぼるのを見つめていたとき。
「これって、自分を整えようとしてるんだ」
そう、ふと思ったんです。
食べることは、ただの“行動”じゃなくて、
“今のわたし”を整えていくためのケアだったんだ──と。
だから今日は、
「ごはんを整える」という視点から、
わたし自身をやさしく扱うことについて、一緒に考えてみませんか?
目次
「食べる」ことが“義務”になっていませんか?
「ごはんはちゃんと食べなきゃ」
そう思うのは、きっと悪いことじゃない。
でも、
その“ちゃんと”が、いつの間にか
「空腹を埋めるための作業」になっていたら──
それは少しだけ、
自分のことを雑に扱ってしまっているかもしれません。
食事は、本来“補給”じゃなくて、
“整える”ための儀式だと思うんです。
空腹を満たすだけなら、
パンひとつ、スープひとさじで済むかもしれない。
けれど、
「わたしを整えたい」っていう気持ちがあるとき、
ごはんの時間はもっと静かで、やわらかなものになる。
たとえば──
湯気の立つ汁物を一品、
ほぐしたごはんを丁寧に器に盛って、
箸をそっと置いてみる。
その“整った景色”が目に入っただけで、
呼吸が深くなる気がするんです。
「今のわたしは、この時間を必要としている」
そう気づくための、小さなスイッチ。
ごはんは、
お腹だけじゃなくて、
わたしという存在そのものを、中心に戻してくれるもの。
だから、ただ“食べる”ことが義務になっていると気づいたら──
そっと一呼吸おいて、
“整えるごはん”に、切り替えてみてください。
整ったごはんは、丁寧さの集合体
「整ったごはん」と聞くと、
栄養バランスが完璧な食事や、
彩り豊かな定食を思い浮かべる方もいるかもしれません。
でも、わたしが言いたい“整える”は、
もっと静かで、手ざわりのあるものです。
たとえば──
冷蔵庫の片隅で眠っていたにんじんを切るとき。
その断面の色にふと、季節を思い出す。
小さな器におひたしをよそうとき。
菜箸でひとつまみする、その所作の緩やかさ。
ごはんを盛る、
お椀を添える、
箸をそっと置く──
それら一つひとつが、「今ここ」に戻ってくる動作なのだと感じます。
特別なものじゃなくていい。
ごちそうじゃなくていい。
大切なのは、“自分を丁寧に扱おうとする意志”が、
所作のなかに確かにあること。
わたしがわたしに向けて行う、
今日のささやかな儀式。
それが“整ったごはん”の本質なのだと思います。
冷蔵庫の余り物でも“整う”ことはできる
「整える」と聞くと、
時間も手間もかけなきゃいけない気がして、
なんだか気が重くなってしまう……
でもね、
整えるって、決して“ちゃんと作ること”じゃないんです。
たとえば、
昨日の残りの煮物が一口分だけあるとき。
冷蔵庫の奥から見つけた野菜が、
ぎりぎり炒め物にできそうなとき。
その一品を、
ただ適当に並べるのではなくて、
「きちんと向き合ってみる」ことが整えるということ。
器を選んで、
汁気を軽くきって、
盛りつけにすこし心を添える。
──それだけで、
なんでもなかった料理が、
「わたしのために整えたごはん」に変わるんです。
ごちそうじゃなくても、
映えなくてもいい。
“ちゃんと扱う”というまなざしこそが、
今の自分をやさしく包み込んでくれる。
だから、冷蔵庫の余りものこそ、
整えるチャンスかもしれません。
「今日のわたしに、これでじゅうぶん」
そう言ってあげられる時間をつくっていけたら、
きっと少しだけ、暮らしの温度が変わります。
整える=整えようとする姿勢
気分が落ち込んでいるとき。
やることが山積みで、疲れきっているとき。
「整えるなんて、そんな余裕ないよ」って、
思ってしまうことも、もちろんあります。
でもね、
整えるというのは、完璧を目指すことじゃないんです。
それよりも、
「整えたいな」「ちゃんとしたいな」って思ってる自分の声を、
そっと聞いてあげることが、一番大切。
たとえば、
コンビニのお弁当でも、
買ってきたお惣菜でも──
器に移すだけで、
お箸を揃えて置くだけで、
“整えたがっている自分”に、寄り添える。
そしてそれは、
「もっとちゃんとしなきゃ」ではなく、
「今日のわたしを、これで迎えてあげよう」という、
やさしさの選択肢なんです。
整っていない日もある。
それでいい。
でも、整えようとする気持ちがどこかにあるなら──
それを見逃さずに、
小さな一歩だけでも、そっと踏み出してあげてください。
その姿勢だけで、
ごはんの風景は、静かに変わっていく。
そして、自分に向けるまなざしも、やわらかく変わっていくのです。
湯気の立つ器が、自分を中心に戻してくれる
あたたかいものを目の前にすると、
ふしぎと呼吸が深くなることってありませんか?
冷えた心に、湯気がやさしく触れてくるような感覚。
それだけで、
「あ、大丈夫かもしれない」って、すこしだけ思える瞬間がある。
味噌汁でも、スープでも、お茶でも。
温かいものを注いだ器から立ちのぼる湯気は、
ただの蒸気ではなくて──
感情と感覚を内側に戻してくれる導線なんだと思います。
どんなにざわざわしていても、
湯気を見つめていると、
すこしずつ思考がやわらいで、
「ここにいる自分」に気づかされる。
それは、香りにも似ています。
だしの香り、煎茶の香り、
甘い味噌や、とろみのあるあんかけの香り。
五感がいっせいに開いて、
自分を“中心”に戻すための小さな儀式が始まる。
誰のためでもなく、
見せるためでもなく、
「わたしを思い出す」ための、ごはんの時間。
湯気の立つ器は、
今日という日に
そっと着地するための、火種のような存在かもしれません。
わたしのために整える、今日のごはん
今日のごはんは、
誰に見せるものでも、評価されるものでもありません。
インスタに載せなくてもいいし、
「えらいね」って言われなくてもいい。
ただ、“わたしのために整える”という気持ちがあれば、それで十分。
たとえば、
好きな器に、少しだけごはんを盛って、
残りものの副菜をのせて、
湯気の立つ汁椀を添える。
それだけで、
今日の自分に必要な栄養と、
「ちゃんと扱ってもらえた」という実感が、すっと心に届くんです。
誰かに作ってもらうごはんも嬉しいけれど、
「自分で自分に差し出す」という行為には、
もっと深い安心感がある。
整えることの本質は、
“立派な料理”じゃなくて、
“そのままの自分を認めてあげること”なのかもしれません。
どんな日でも、どんな状態でも、
「今日もごはんを整えてみよう」と思えたら──
それだけで、
暮らしの中にやさしさが生まれ、
明日へとつながる小さな火がともるのだと思います。