なんとなく気分が落ち着かない。
やらなきゃいけないこともあるのに、集中できない。
そんなとき、ふと周りを見渡すと──
部屋の中が、ちょっと散らかっていたりしませんか?
洗濯物がたたまれないままのソファ。
使ったまま置かれたカップ。
出しっぱなしの書類や、脱ぎっぱなしの服。
誰に責められたわけじゃないのに、
どこか自分自身から責められているような、
小さな“ざわざわ”が生まれてしまう瞬間。
そしてその“ざわつき”は、
頭の中や感情にも、じわじわと影響してきます。
「落ち着かない」って、
実は“空間”がくれているサインだったのかもしれない。
この回では、
“散らかった部屋と乱れる心”の関係について、
コモチと一緒にやさしく見つめていきます。
そして、完璧じゃなくても、
「自分が落ち着ける小さな空間」を育てるヒントを
そっと紐解いていきましょう。
目次
視界に“乱れ”があると、心にもざわつきが
何気なく過ごしているようで──
わたしたちは、
“視界から入る情報”にとても影響を受けています。
部屋の中が散らかっていると、
それだけで「やらなきゃ」「片づけなきゃ」が無意識に浮かび、
心の中に“静かなノイズ”が広がっていく。
これは、
視界にある「乱れ」が、
そのまま心の中の「落ち着かなさ」に変換されているから。
たとえば──
テーブルの上に物が積まれている、
床にモノが散らばっている、
洗濯物が目に入るたびに、「あとでやらなきゃ…」と考えてしまう。
こうした小さな“視覚ストレス”が積もることで、
本来感じるはずの穏やかさが、後回しになってしまう。
そしていつしか、
集中できない/疲れやすい/気分が沈む
といった形で、
“心の乱れ”として表に出てきてしまうんです。
だからこそ、
落ち着けないと感じるときほど、
「部屋のせいにしてもいい」と、わたしは思うんです。
心が乱れてるから片づけられない──
ではなくて、
散らかっているから心が乱れているのかもと、一度視点を逆にしてみる。
そのやさしい発想の転換が、
自分を責めないための、最初の一歩になる気がしています。
「片付けなきゃ」に追われてしまう日
責めるような視線が自分に向く
完璧じゃなくていい空間づくりとは
「また片付けられなかった」「こんな部屋じゃだめだ」──そんなふうに、自分の生活空間を見つめながら、心の中で小さくため息をついたことはありませんか?
いつのまにか、“片付けること”そのものが義務やプレッシャーになってしまっていて、本来は心を整えるための行為のはずが、逆に自分を責める材料になっていることがあるのです。
とくに仕事や家事、育児など、やることがたくさんある日ほど、「まずは目の前をどうにかしなきゃ」と思ってしまいがち。でも、それって本当に“片付け”の目的なのでしょうか?
片付けは、決して完璧でなくていいのです。
「気になるところだけ整えて、あとはそのまま」でもいいし、「今はまだ触れないから、布を一枚かけておこう」でもかまわない。
それはサボっているのではなく、“自分を責めない空間”をつくろうとしているやさしさの表れです。
わたしも、そんなふうに「片付けきれない自分」を責めないための、小さな工夫を日々こしらえています。
片付けの目的を“自分軸”に戻す
誰かの目より、自分の安心を優先する
“落ち着く景色”をつくるために
「きれいにしておかないと恥ずかしい」
「突然誰かが来たら困る」──
そんな思いが片付けの動機になっていると、
“誰かのための空間”ばかりを整えることになって、
肝心の「自分がくつろげる場所」がどこにもなくなってしまいます。
本当は、
部屋を整えることって、
「誰かの目にどう映るか」じゃなくて、
「自分が安心できるかどうか」で決めていい。
たとえば、
ほこりひとつない床より、
好きな果物が置かれたテーブルのほうが、
気持ちが落ち着くときもある。
完璧に整ったインテリアよりも、
やさしい灯りの中で飲むお茶のほうが、
心を休ませてくれるときがある。
“落ち着ける景色”って、誰かの正解じゃなくて、
自分の心が静かになる風景なんです。
だから片付けも、暮らしの整え方も、
「人からどう見えるか」ではなく、
「自分がどう感じたいか」に立ち戻っていい。
わたしも、
お客さんを迎える準備より、
“わたしが休める居場所”を、先に整えてみるようにしています。
コモチの“散らかり対処法”3選
テーブルの上だけ整える/布を一枚かける/灯りを変える
散らかしきる前に“休む”
「ぜんぶ片付けなきゃ」と思うと、
気持ちが萎えてしまう日もありますよね。
そういうとき、
わたしは「小さく、最初の一手だけ」をやってみるようにしています。
🍽 ① テーブルの上だけ整える
部屋全体を片付けるのは無理でも、
テーブルの上だけ“何もない状態”にしてみる。
たったそれだけでも、
目に入る情報がスッと減って、
気持ちがちょっとだけ整います。
お茶を淹れるときも、ごはんを食べるときも、
“真っさらな場所”がひとつあるだけで、落ち着ける。
🪄 ② 布を一枚かける/灯りを変える
棚の上、ソファの背もたれ、カゴの中身──
「見えること」そのものがストレスになっているなら、
“視線をふさぐ”という選択もアリです。
お気に入りの布を一枚かけてみたり、
間接照明を灯して“雑然”を“曖昧”に変える。
この“曖昧化”には、心を休ませる力があります。
🌱 ③ 散らかしきる前に“休む”
そしてもうひとつ、大切にしているのが、
「本格的に散らかる前に、ちょっと休む」こと。
疲れているときって、
片付ける気力もわかず、
どんどん積もっていってしまいますよね。
だから私は、
「あ、そろそろ散らかりそう」と思ったタイミングで
“先に体を休ませる”ことにしています。
寝転んだり、湯呑みを手にしたり、
果物をひとつむいたり──
「心のほうを先に整える」アプローチも、
暮らしには必要なんだと思います。
“整える”は=“責めない”ことでもある
できるときに、できるだけでいい
「片付けない選択」もOKにする
「片付けなきゃいけないのに、できない……」
そんなとき、
いちばん傷つくのは、
“できなかった自分”を、自分で責めてしまうこと。
でも、整えるって、
本来は自分を守るための手段であって、
自分を傷つける道具ではないはずです。
わたしは、
「今日はできなかったけど、それでもいい」って
ちゃんと言える日が、いちばん整っていると思うんです。
たとえば、
体調が悪い日や、
心がもやもやしている日。
そういうときは、
「片付けない」ことを選ぶのも、やさしい暮らし方のひとつ。
布をかけて隠すのもよし、
明かりを落として“見ない”のもよし、
「明日のわたしに託そう」って思うのも立派な整え方。
「整える=完璧にすること」ではなく、
「責めないための選択肢をもつこと」
その視点をもてるだけで、
空間も、気持ちも、
すこしやわらかくなれる気がするんです。
空間が整うと、呼吸も深くなる
住まいは心の延長
だから少しずつ、落ち着ける場所を育てていく
何も特別なことをしていないのに、
気持ちがざわついたり、
落ち着かなくなったりする日があります。
そんなとき、ふと部屋の空気に目をやると──
空間そのものが、わたしの心と“同じ状態”になっていた、なんてことも。
整っていない空間は、
気づかないうちに、呼吸を浅くしてしまいます。
逆に、ちょっと整った空間に身を置くと、
それだけで「ふぅ」と、深く息ができるようになる。
住まいって、
ただの箱や器じゃなくて、
わたし自身の“感情の延長線”なんだと思います。
だから、完璧に片付けることよりも、
「ちょっと落ち着ける場所がある」ことのほうが、大切。
たとえば、
湯呑みとお皿が整然と並んだ棚。
やさしい灯りが差し込む机の上。
毛布がふわっとかけられたソファ。
そんな“小さな落ち着き”を、暮らしの中にひとつずつ。
今日すべてが整わなくても大丈夫。
わたしの中の“落ち着ける空間”は、
これから少しずつ育てていけばいいから。