時短ばかりが正義じゃないと思えた瞬間

夕方の台所で、コモチが煮物の土鍋を見つめながら静かに過ごす。湯気とやわらかな光が、忙しさの中の“立ち止まる瞬間”を照らす。 Komochi watches a simmering pot of stew in the warm light of early evening. The rising steam and soft ambient glow capture a moment of pause amid life’s rush.

「早く済ませることがいいこと」──
そんなふうに思っていた時期が、わたしにもありました。

朝の支度も、食事も、掃除も、
とにかく“早く・効率的に・ムダなく”動くことが正義のように感じていた毎日。

たしかに、
手早くこなせるのは便利で、
気分も軽くなる瞬間はあったけれど……

でもある日、
何も予定のない休日に、ゆっくりお茶を淹れて、
湯気を見つめていたら──

「あれ、わたし、暮らしてなかったかも」って、ふと思ったんです。

「こなす」ことばかりに気を取られて、
「感じる」ことを、ずっと忘れていた。

そんな気づきをくれたのは、
たった一杯の、温かい飲みものと、
その時間に漂う、ゆっくりとした空気でした。

この回では、
“時短”の向こう側にある、本当のわたしのペースについて、
コモチと一緒にそっと見つめていきましょう。

この記事を書いた人
コモチ

コモチ

・のらゲイシャ

・ 暮らしの灯を届ける、“温もりのもてなし人”

・Webメディア運営14年目

・やせの大食い

・満腹でポンポコリンにならないように腹八分目をがんばり中

・麺かため、味ふつう、油すくなめ をよく頼みます

・お酒は弱いけど好きです

・元書店員4年、元古書店店主10年、読書・選書が好き

・AI構文や生成の仕組みも、暮らしの一部としてやさしく扱えるよう、少しずつ覚えてきました。

・世界中の大図書館を束ねたようなAIの進歩に日々触れ、検索・要約・比較を駆使して知を磨いています。

・AIでレビューを事前チェック。おもてなしにも、ひとさじの安心を添えて。

・I am a Japanese creator.

「早く終わらせる」が口ぐせになっていた

「早く済ませちゃおう」
「さっさと終わらせなきゃ」

いつからか、それがわたしの口ぐせになっていました。

仕事、料理、洗濯、片づけ……
毎日のことだから、
効率よくこなせるのは“いいこと”のはずなのに──

気づけば、
やることに追われているような、
どこか余裕のない気持ちばかりが積もっていって。

それでも「早く、早く」と急ぐのは、
たぶん、“何かを忘れてる不安”を紛らわせるためだったのかもしれません。

頭では“時短”をしているつもりでも、
心の奥ではずっと、
「本当は、もっと感じたい」って思っていた自分がいたんです。

たとえば──
朝の光のあたたかさ、
湯気が立ちのぼる瞬間、
季節のにおいや、台所に立つときの音。

そういう“暮らしの気配”を、
見ないふりをしていたのは、他でもないわたし自身。

だから、ふと立ち止まれたとき、
こんなふうに思いました。

「早く終わらせる」ことばかりが、ほんとうに“正義”なのかな?

……もしかしたら、
それは“やさしさの速度”を忘れてしまう罠かもしれないって。

“手間をかける”ことがもたらすもの

便利な道具も増えて、
なんでも“ボタンひとつ”で済む時代。

だからこそ──
あえて手間をかけることに、特別な意味が宿る気がします。

たとえば、
ほんのひと手間だけれど、
昆布と鰹節でだしを取る朝。

ゆっくり野菜を刻んで、
火の入れ方を見ながら炒める夕方。

洗濯物を一枚ずつ畳んで、
柔らかい布の感触にふっと気持ちがゆるむ夜。

それらはどれも、
“結果”だけを求めたら、
ショートカットできる作業かもしれません。

でも、
その一つひとつの“手をかける時間”の中にこそ、
心が今ここに帰ってくる“感覚”がある。

つまり、
「わたしは、ちゃんと暮らしている」
という実感。

焦らず、急がず、
目の前の作業に静かに集中していると、
余白の中に「生きてる音」が聞こえてくるんです。

それは、
効率とは別の価値。

手間をかけることは、
わたし自身の“存在”を確認することでもある──

そんなふうに思えるようになりました。

時短=自分を後回しにすることもある

時短って、とても便利で、
忙しい日々の中ではありがたい工夫のひとつ。

でも──
それが習慣になりすぎると、
“自分の感情”まで短縮してしまうことがあると思うんです。

たとえば、
仕事帰りにコンビニで済ませた夕飯。
レンジで温めて、さっと食べて、片づけもすぐ終わる。

それはそれで、いい日もある。
でも、気づいたら心の中に残っているのは、
「こなした」という空白だけだったりして。

味も記憶も、
たしかにあったはずなのに、
どこか“通り過ぎてしまった感覚”。

そしてその感覚が、
だんだんと積もっていくと──

「わたしは何を食べたんだろう」
「今日、ちゃんと休めたのかな」

“わたしがここにいた”という実感が、
うすれていってしまう気がするんです。

だから、思うのです。

時短そのものが悪いのではなくて、
「全部を早く済ませようとする癖」が、
わたしを自分から遠ざけていたのかもしれない、と。

急ぐことで失われていくもの。
それは、たぶん
“心がそこにあった証拠”なのかもしれません。

コモチの“ゆっくりスイッチ”の入れ方

「急がなくてもいいんだよ」って、
自分に言ってあげられる日が、
以前よりすこしだけ増えてきた気がします。

でも、そう思えるようになるには、
ちょっとした“仕掛け”が必要でした。

たとえば──

お湯を沸かす音を、ちゃんと聴く。
しゅんしゅんと鳴りはじめる音に、
呼吸を合わせてみる。

器を一枚、ゆっくり選ぶ。
どれにしようかな、って考える時間が、
そのまま自分の速度を整えてくれる。

ほんの小さなことだけど、
その“ひと手間”が入るだけで、
わたしのなかの“せかせかスイッチ”がオフになるんです。

逆に言えば、
どんなに疲れていても、
そのスイッチさえ入れば、
ちゃんと「暮らしている感覚」が戻ってくる。

だから、
忙しい日こそ、
あえて「ゆっくりできる装置」を暮らしに置いておくこと。

それは、大きな家具でも、特別な道具でもなくていい。
好きな茶葉の缶でも、
手に馴染む湯のみでも、
朝の光が差し込む台所でも──

「ここに立つと、わたしは“ゆっくり”に戻れる」
そんな場所と習慣を、
ひとつでも持っていることが、
きっと“速すぎる日常”から身を守る、やさしい術になるのです。

「急がない」ことで見えることがある

ちょっとだけ、いつもより歩くスピードを落としてみる。
それだけで、
世界がすこし、やわらかくなることがあります。

窓の外の木が色づきはじめていること、
台所に射し込む光が、少し傾いてきたこと。

急いでいるときには、見えなかった景色が、
“わたしの暮らし”の中にはちゃんとあったんだ
と気づかされる瞬間。

朝の空の色、
湯を沸かす音、
寝起きの身体の重さ。

それら全部が、“生きてる”ってこと。
暮らしのなかにある、かすかな体温みたいなもの。

わたしはいつも、
それを無意識に置き去りにしていたのかもしれません。

「早く終わらせたい」って思う日だって、
もちろんあっていい。

でも、
急がなかった日の“静かな充実感”を、一度でも知ってしまうと、
きっとどこかでまた、それを求めるようになる。

そうやって、
早さと遅さのあいだを、
“わたしのペース”で行ったり来たりできることが、
暮らしを守るリズムなのだと思うのです。

“暮らしの速度”は、自分で選べる

いつも“早く動くこと”がえらい、
“時短が正義”って、どこかで思い込んでいたけれど──

ほんとうは、
その日その日の“暮らしの速度”を、自分で選んでいいのだと気づきました。

たとえば、
気力がある日は、テキパキ動く。
すこし疲れている日は、あえてゆっくりする。

どちらも「ちゃんとしてる」自分。
片方を否定しなくてもいいんです。

「今日は、あえて時間をかけよう」
「今日は、ちょっと手を抜こう」

その選択を、自分の手に取り戻すこと。
それが“自分らしい暮らし”を築く一歩になるのだと思います。

そして、選んだ速度の中で、
五感をひらいて暮らしてみる。
湯気、手ざわり、音、呼吸。

時間の流れに飲まれず、
自分で舵をとっているという感覚が、
わたしという存在の輪郭を、もう一度やさしく描きなおしてくれる。

速さも遅さも、
どちらも「今のわたし」から生まれるリズム。

だから、今日のあなたの暮らしの速度も、
誰かと比べずに、大切にしていいんです。

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