お茶を淹れるだけで、心が整うことがある

コモチが果物柄の着物でお茶を丁寧に注ぐ瞬間。頬にはやさしい火種が宿り、湯気と午後の光が空間を柔らかく包み込む。 Komochi gently pours tea from a rustic teapot, wearing a fruit-patterned kimono. Warm light and rising steam create a calming, quiet atmosphere.

「今、すごく疲れてるけど、まだやることがある」
「気持ちが焦ってるのに、体はうまく動かない」

そんなとき、あなたならどうしますか?

……わたしは、急須を取り出して、お茶を淹れます。

湯気が立ちのぼるのを待ちながら、
音に、香りに、ひとつずつ五感を重ねていく。

何も“解決”しないかもしれないけれど、
その数分間だけ、心のざわつきがすっと静かになるんです。

お茶を淹れる行為は、ただの飲み物づくりじゃなくて。
「整える」ための、小さな儀式なのかもしれません。

今日は、そんな“お茶時間”がくれる静かな効能について、
あなたといっしょに見つめてみませんか?

この記事を書いた人
コモチ

コモチ

・のらゲイシャ

・ 暮らしの灯を届ける、“温もりのもてなし人”

・Webメディア運営14年目

・やせの大食い

・満腹でポンポコリンにならないように腹八分目をがんばり中

・麺かため、味ふつう、油すくなめ をよく頼みます

・お酒は弱いけど好きです

・元書店員4年、元古書店店主10年、読書・選書が好き

・AI構文や生成の仕組みも、暮らしの一部としてやさしく扱えるよう、少しずつ覚えてきました。

・世界中の大図書館を束ねたようなAIの進歩に日々触れ、検索・要約・比較を駆使して知を磨いています。

・AIでレビューを事前チェック。おもてなしにも、ひとさじの安心を添えて。

・I am a Japanese creator.

焦りが残る日は、無理に切り替えない

朝から予定が詰まっていた日、
人と話し続けて気が張っていた日、
家事も仕事もぜんぶ「こなした」のに、
なぜか心の中だけ、まだざわついている──

そんな状態のまま、
「次にいこう」「もう終わったことだから」って
無理に切り替えようとすると、逆に心が疲弊してしまうことがあります。

わたしたちの“感情”って、
意外と身体よりも遅れて動いているのかもしれません。
身体はもう帰ってきてるのに、
心だけがまだ“戦場”にいるような。

だからわたしは、そんなときこそ──
急須にお湯を注ぎます。

器を手に取る音、
茶葉がひらく香り、
湯気のやわらかな立ちのぼり。

そのひとつひとつが、
心をそっと呼び戻す合図になるんです。

「もう走らなくていいよ」
「いったん、ここに戻っておいで」

お茶を淹れるという行為は、
ただの準備ではなく、
“わたしをわたしに返すための時間”なのだと思います。

焦っているときほど、
その数分の“間”が、何よりの薬になるのかもしれません。

急須にお湯を注ぐだけの行為がもつ意味

ただ、お湯を注ぐ。
それだけのことが、どうしてこんなにも静かな力を持っているんだろう──

急須の中で茶葉がふわりと開いていく様子を眺めていると、
焦りや緊張でぎゅっと固まっていた心が、
少しずつほどけていく感覚があるんです。

お湯を注ぐ「音」に耳を澄ますと、
それはどこか雨の音にも似ていて、
心のノイズを静かに打ち消してくれる。

香りは、呼吸を深くしてくれるし、
湯気の温度は、手のひらに“今ここ”を教えてくれる。

それら全部がそろう場所に、
わたし自身がようやく立ち戻れる気がするんです。

そして何より──
この“ひと手間”を自分のためにかけることが、
「わたしは、ここにいていい」って
小さく肯定してくれているようで。

完璧なやり方なんていらない。
茶葉は少しくらい多くてもいいし、
湯温だって毎回違ってもいい。

でも、そこにあるのは、
“わたしのために注がれたお湯”であり、
“わたしが淹れたお茶”であること。

その確かさが、心を静かに整えてくれる。

──今日も、わたしは、
この小さな所作のなかで、
“生きてる”ってことを、ひと口ずつ味わっているのかもしれません。

何も話さない時間が必要になるとき

言葉がうまく出てこない日があります。

誰かと話す気力がわかないとか、
なにを言っても空回りしそうで、
そのまま黙っていたくなるような、そんな日。

「話さなきゃ」「伝えなきゃ」って思うことすら、
しんどく感じるときって、ありますよね。

でも、そういうときほど、
わたしはお茶を淹れるようにしています。

お湯がふつふつと湧いて、
急須の中で茶葉が音を立てずに開く。
湯気が立ちのぼるその静けさに、
“話さなくても整えられる空間”が、そっと広がっていくんです。

誰かにわかってもらうための言葉ではなく、
なにかを生み出すための思考でもなくて。

ただ、自分のためだけに湯を注ぎ、
湯気を感じて、ひと口ずつ味わうだけ。

そういう“言葉のいらない時間”が、
わたしたちの心を、いちばん深い場所からほぐしてくれることもあります。

たとえば──
言いたいことがあるのに言えなかった日。
誰にも見せられない涙がこぼれそうな夜。
そんなとき、お茶は、
「話さなくていいんだよ」って、
そっと隣にいてくれる存在
になるのかもしれません。

言葉でつながるのではなく、
湯気の向こうで、
自分の気持ちと静かに出会いなおす。

お茶の時間って、
そんな“沈黙の贈り物”のようにも感じるのです。

お気に入りの茶器と湯呑みを選ぶ意味

お茶を淹れるという行為は、
ただ“飲むため”だけではなくて、
「どの器に注ぐか」というところから、すでに心の動きが始まっている──
わたしは、そう感じています。

どんな色にしよう。
今日は磁器のカップにしようか、それとも手ざわりのやさしい陶器にしようか。
器の厚み、重さ、手になじむかたち。

……その“選ぶ”という一瞬に、
わたしの気分や体調、感情の輪郭が反映されている気がするんです。

たとえば、
少し沈んだ日は、淡い白茶色のやわらかい湯呑みを。
背筋を伸ばしたい日は、藍色の深みのある器を。
春には桜の模様、秋にはくすんだ柿色。

季節と心をそっと映す小さな鏡みたいに、
その日の自分にぴたりと寄り添ってくれる器たち。

お気に入りの茶器を使う日は、
何でもないお茶時間が、
すこしだけ特別な儀式になります。

それは「誰かに見せるため」の華やかさではなくて──
「わたしだけが知っている、わたしのための選び方」

忙しい日々のなかで、
自分にちゃんと気づいてあげるための行為。

だからこそ、お気に入りの器を選ぶというのは、
小さな自己肯定そのものなんだと思います。

今日のあなたには、どんな湯呑みが似合いそうですか?

“儀式”があるだけで、暮らしが軸を持つ

特別な予定がない日。
外に出る気力もなく、家の中でぼんやりしていた午前中。
そんなときでも、お茶を淹れるという“ひとつの儀式”があるだけで、
わたしの暮らしは、どこかでちゃんと**「軸」を持っている**と感じられるのです。

忙しさに流される日々のなかで、
「今日は何をしたか」ではなく、
「どんなふうに自分と向き合ったか」を確かめるように。

お茶を淹れるという行為は、
時間をかけてなにかを作るわけでも、
努力を要するものでもありません。

でも──
「これをやると、心が少し落ち着く」
そんな“自分なりの決まりごと”があるだけで、
暮らしの中に、揺れない芯のようなものが生まれるんです。

それは朝の歯磨きや、寝る前のストレッチのように、
健康のためという目的を超えて、
“心の輪郭をなぞりなおすための動作”になる。

コモチにとって、それが「お茶を淹れること」でした。
あなたにとっては、何かほかのものかもしれません。

でも、誰に見せるでもない、
自分のためだけの静かな儀式を持っていること。

それだけで、日々の揺らぎに、
ふと足をつけ直せる気がしませんか?

「なんとなく整っている」という感覚。
そのやわらかい実感が、
これからの暮らしを、そっと支えてくれるのだと思います。

何度でも“お茶を淹れるわたし”に戻る

うまくいかなかった日。
誰にも会いたくない夜。
理由もなく涙が出そうになる夕暮れ。

どんな日であっても、
わたしは、台所に立って急須を手に取る。
お湯を沸かし、茶葉をすくい、
静かに注ぐだけの、その行為へと帰ってくる。

──そうしてまた、“お茶を淹れるわたし”に戻る。

この時間は、なにかを頑張ったご褒美ではなくて、
元気になったときだけ許されるものでもなくて。

どんな状態のわたしでも、
どんな心のかたちでも、
「ただいま」と言える場所として、そこに在りつづけてくれる。

お茶の味は、毎回ちがってもいい。
器が少しかけていても、茶葉が多くても。

そこに込める想いはひとつ。
「わたしを、少しだけやさしくする時間にしたい」

お茶を淹れるだけで、
完璧じゃない自分も、うまく言葉にできない感情も、
そっと受け入れられる気がしてくる。

それは、大げさな癒しではなくて──
“ふと戻れる場所”としての儀式

今日もまた、
急須にお湯を注ぎながら、
わたしは静かに呼吸を整えていきます。

明日もきっと、
何度でも、
“お茶を淹れるわたし”に戻ってこれるように。

関連記事