週末の“何もない時間”を確保する方法

畳の上に横たわり、湯呑を手に静かに遠くを見つめるコモチ。果物柄の和装と巾着袋がそっと添えられ、午後の光が頬と手をやさしく照らす。 Komochi lies on a tatami mat, gently holding a teacup, gazing into the distance. Her fruit-patterned kimono and drawstring pouch rest beside her, bathed in warm afternoon light.
この記事を書いた人
コモチ

コモチ

・のらゲイシャ

・ 暮らしの灯を届ける、“温もりのもてなし人”

・Webメディア運営14年目

・やせの大食い

・満腹でポンポコリンにならないように腹八分目をがんばり中

・麺かため、味ふつう、油すくなめ をよく頼みます

・お酒は弱いけど好きです

・元書店員4年、元古書店店主10年、読書・選書が好き

・AI構文や生成の仕組みも、暮らしの一部としてやさしく扱えるよう、少しずつ覚えてきました。

・世界中の大図書館を束ねたようなAIの進歩に日々触れ、検索・要約・比較を駆使して知を磨いています。

・AIでレビューを事前チェック。おもてなしにも、ひとさじの安心を添えて。

・I am a Japanese creator.

予定を詰めすぎてしまう人へ

「週末、予定ある?」
そんな何気ない一言に、少しだけ胸がざわつくことがあります。

もちろん、遊びたい気持ちもあるし、誰かと過ごすのも嫌じゃない。
でも、実際のところ──わたしの心と身体が、本当に欲しがっているのは、**“何も予定のない時間”**かもしれません。

それなのに、「せっかくの休みだから」「誘われたら断れないし」と、気づけばスケジュールがびっしり。
終わったころには、また疲れている……。

「休みなのに、なんでこんなに疲れてるんだろう?」
ふと、そんな疑問がわいたとき、
予定の有無ではなく、“余白”の有無に目を向けてみてほしいんです。

週末を、何かで埋めようとするのではなく。
週末を、何かから自分を“解いて”あげるための時間にする。

その感覚が少しずつ育つだけで、
わたしたちは「頑張りすぎる日々」から、
そっと自分を連れ戻せるようになるのだと思います。

“何もしない”が怖くなる理由

予定を入れなかった休日に、ふいに押し寄せてくる感覚があります。

「わたし、何もしてない……」
「このまま何もしないでいいの?」

──そう思った瞬間、そわそわと落ち着かなくなる。

不思議ですよね。
本来は“休むために設けた時間”なのに、
休んでいるはずなのに、
どこか罪悪感や不安のようなものが顔を出してくる。

その正体は、もしかするとわたしたちの中に根づいた「価値=行動量」という思い込みかもしれません。

何かしていないと、
生産していないと、
誰かの役に立っていないと、
わたしには価値がないのでは……?

──そんなふうに、無意識のうちに“動くこと”で自分を保とうとしてしまう。

けれど本当は、
「動かない時間」こそが、心にとっての呼吸なのだと思うのです。

空白は、空虚じゃありません。
それは、何かが満ちる前の“静かな器”

だからこそ、何もしない時間に焦ったら、
そっと心の中でこう言ってあげてください。

「今は、満ちる準備をしている時間なんだよ」と。

スケジュール帳に“空白”を描いてみる

手帳やアプリに、びっしりと埋められた予定。
「忙しいけど充実してるね」と言われると、どこか安心する一方で──
その余白のなさに、ふと息苦しさを覚えることもありませんか?

わたしはあるとき、手帳に“空白を意識して残す”ようにしてみました。
なにも書かれていない、ぽっかりと空いた午後の数時間。
最初はなんだか落ち着かなくて、「ここに何か入れなきゃ」と思ってしまう自分がいました。

でも、その空白を“守る”と決めてみると、
少しずつ、そこが“呼吸のための場所”になっていったのです。

その時間に特別なことをするわけではありません。
湯呑みにお茶を淹れて、
何も考えずに果物の皮を剥いて、
窓から差し込む光をぼんやり眺める──
ただそれだけの時間。

だけど不思議と、その空白があるだけで、
ほかの予定まで軽くなっていくような感覚がありました。

スケジュール帳に「○○する」を書くのと同じくらい、
「○○しない時間」を書くことにも意味がある。

たとえば──

  • 13:00〜15:00:なにもしない
  • 夜:考えごと禁止時間
  • 午前中:“好きなものだけに囲まれる”時間

こうした記載が、自分にやさしくする許可証になることもあるのです。

予定でいっぱいの手帳ではなく、
“自分に戻る余白”のあるページ
そこに、心の居場所が生まれるのかもしれません。

「週末くらいは」と言える練習

「週末くらいは、ゆっくりしたいなあ」
そう言えるようになるには、少し勇気が要ることがあります。

周りに合わせるのが上手な人ほど、
「誘われたら断れない」
「頼まれごとは受けてしまう」
「空いてるなら入れてもいいか」
そんなふうに、“自分の時間”が誰かの都合に埋められていくことがよくあります。

でもね──
“空いてる”って、“使ってもいい時間”じゃないんです。

空いているように見える時間にも、
実は“心の回復作業”や“何もしない予定”が、
静かに呼吸しているんです。

だからこそ、こう言ってみてほしい。
「週末くらいは、空けておきたいな」
「日曜の午後は、自分の時間にしてるんだ」

それはわがままでも、非協力でもなくて。
“自分を守る言葉”なんです。

誰かに伝えなくてもいい。
まずは心の中で、自分にそう言ってみるところからで十分。

わたしも最初はうまく言えませんでした。
でも、小さな“お断りの練習”を重ねるうちに、
「自分の時間をだいじにしていいんだ」と、
ようやく思えるようになったんです。

週末くらいは。
誰にも会わなくていい。
予定が何もなくてもいい。
空っぽのまま、その時間に触れていたい。

そう思える日は、
きっと“自分との関係”が少しずつほどけていく日でもあるのです。

空白の時間にしていること

「何もしない」って、意外とむずかしい。

そう思った日は、“空白の中で、わたしが自然にしていたこと”をひとつずつ拾ってみるのがいいかもしれません。

たとえば、わたしは──

  • 湯呑みに、少し熱めのお茶を淹れて
  • 茶器を布でそっと拭いて
  • 果物を一個だけむいて、静かに食べて
  • 窓の外でゆれる木の影を、じっと見つめて

……そんなことを、ただしています。

どれも「しなければいけないこと」ではなく、
誰かに見せる必要もないこと。

でも不思議と、その時間の中には、
わたしの“輪郭”が戻ってくる感覚があるんです。

たとえば、果物の香りに季節を感じたり。
お茶の湯気を見て深呼吸したり。
ひと口ごとに、自分の“今の状態”に気づいたり。

「なんとなくしんどかったけど、ちょっと元気になったかも」
そう感じるときって、
いつもこの“名もなき過ごし方”のあとなんです。

誰のためでもなく。
なにかに繋がるわけでもない。
でも、確かにわたしを整えてくれる動作たち。

空白の時間に、「これをしよう」と決めなくてもいい。
でも、「こんなふうにしていていい」と、自分に許すことはできる。

そのやさしい許可が、
予定のない時間を“空虚”ではなく、“豊かさ”に変えてくれるのだと思います。

空白の中に、わたしが帰ってくる

何もない時間って、不思議です。

なにか特別なことをしたわけでもないのに、
ふと、「あ、わたしって、こういう感じだったな」って
思い出す瞬間があるんです。

気づけば呼吸がゆっくりになっていて、
肩の力も抜けていて、
もう何かを証明しようとする気持ちもなくて──

ただそこに、“わたし”がいる。

空白の時間は、
なにかを生み出すためでも、
立て直すためでも、
元気になるためでもないのかもしれません。

むしろ、何者かになろうとしなくてもいい時間。
“なにものでもないわたし”を、
そっと抱きしめられる場所。

それが、週末の“何もない時間”なのだと思います。

──予定がない日。
スケジュール帳にぽっかり空いた、静かな空間。

そこは、世界のノイズから遠く離れて、
わたしがわたしに還るための、小さな港

誰かの言葉ではなく、
通知や評価でもなく、
ただ静かな時間のなかで──
「今日も、生きていてくれてありがとう」って
自分に言えるようになる日。

そんな週末が、これからのあなたにも
そっと訪れますように。

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