🍳 疲れてるのに自炊しちゃう理由

自炊中にふと手を止めたタヌキ耳の少女|A tanuki-eared girl pausing while cooking, gazing softly in thought with a knife and vegetable in hand

今夜も、ほんの少しだけ、手を動かしてみませんか?

この記事を書いた人
コモチ

コモチ

・のらゲイシャ

・ 暮らしの灯を届ける、“温もりのもてなし人”

・Webメディア運営13年目

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・満腹でポンポコリンにならないように腹八分目をがんばり中

・麺かため、味ふつう、油すくなめ をよく頼みます

・お酒は弱いけど好きです

・元書店員4年、元古書店店主10年、読書・選書が好き

・AIでレビューを事前チェック。おもてなしにも、ひとさじの安心を添えて。

・I am a Japanese creator.

ぐったりしてるのに、台所に立ってしまった夜

「もうクタクタだから、何もしたくない」
……はずなのに、気づけば台所に立ってる。
食材を取り出して、鍋に火をつけて、
なんとなくいつものようにごはんを作っている自分がいる。

こういう夜って、不思議ですよね。
身体は正直に「疲れた」と言ってるのに、
なぜか“手を動かすほう”を選んでしまう。

今日はそんな、矛盾してるようで自然な、
**「疲れてるのに自炊してしまう気持ち」**を、そっと見つめてみたいと思います。

「やらなきゃ」が体に染みついている?

料理って、どこか“生活の義務”のようなイメージがあります。
食べなきゃならないし、誰かの分もあるかもしれないし、
冷蔵庫の中身を腐らせたくないし──
気がつけば、「自炊=やらなきゃいけないこと」になってる。

でも本当は、**「今はちょっと無理かも」**って思う気持ちだって、
ちゃんと正直なサインなんですよね。

それでも手が動いてしまうのは、
身体に“やらなきゃ”の癖が染みついているからかもしれません。

食卓を整えること=ちゃんと生きている証。
そんな風に思えてしまう人ほど、
「何もせずにいる自分」を許すのが苦手だったりするのかもです。

“誰かに見せるため”じゃない食卓

疲れているときって、本来は、
誰にも見られたくないような気持ちになりませんか?

それなのに、
「食事だけはちゃんとしたものにしなきゃ」
「せめてこれくらいは、やっておこう」
──そんなふうに、自分に“ちゃんと”を課してしまう。

でも、それってほんとは、誰かの目を気にしてるわけじゃない。
たぶん、**「自分自身の目」**がいちばん厳しいのです。

だからこそ、
ごはんをつくるという行為が、
「見せるため」じゃなく「支えるため」になったとき、
その台所の空気が、ふっとやわらかく変わる気がするんです。

自分を責めるためじゃなく、
守るために手を動かす。
──それって、とてもあたたかい自炊だと思います。

料理は、無意識のセルフケア?

「作らなきゃ」って思って始めたはずなのに、
野菜を切っているうちに、
煮える音を聞いているうちに、
気持ちが少しだけ落ち着いてきた。

そんな経験、ありませんか?

料理ってじつは、
**“五感を使う静かなケア”**でもあるんです。

・包丁のリズム
・湯気のにおい
・じゅわっと音が立つ瞬間

これらはぜんぶ、
自分の外に向いていた意識を「今ここ」に戻してくれるもの。

意図せず料理を始めてしまうときって、
実は自分が「休ませて」と言えなかった感情を、
台所で癒そうとしているのかもしれません。

疲れてるからこそ、“手を動かす”を選ぶ心理

疲れているとき、
「何もしたくない」と思っているはずなのに、
なぜか“動いたほうが楽”に感じることってあります。

実はこれ、よくある反応なんです。

心が疲れているとき、
じっとしていると、余計な考えごとや不安がふくらんでしまって、
かえって“つらさ”を強く感じてしまうことがあります。

そんなとき、手を動かすことで
「わたしはここにいる」「ちゃんと存在してる」と、
静かに自分を確かめているのかもしれません。

料理って、実際には大変な作業だけれど、
感情が浮かばないときの“確かな動作”として
選ばれやすいものなのだと思います。

だから、動いてしまった自分を、責めなくて大丈夫です。
それは、休めなかったんじゃなくて、
**“別の形で休もうとしていた”**のかもしれないから。

「なんとなく」で動く自分を、否定しない

「なんとなく作り始めちゃった」
「つい手が伸びて、包丁持ってた」
……そんな自炊にも、ちゃんと意味があります。

理由や目的を後から探そうとすると、
「ちゃんとしてなきゃダメだったのに」
「もっと休めばよかったのに」
──と、自分を責める言葉が湧いてきてしまう。

でも、“なんとなく”って、
身体や心が選んだ、自然な選択でもあるんですよね。

言葉にできない状態のときこそ、
感覚のほうが先に動いてくれることがある。

だからこそ、わたしは
「動いちゃった自分」を否定しないようにしています。

行動の理由があとからついてくる夜があっても、
それはそれで、ちゃんと“やさしい選択”だったんです。

“わたし”を取り戻す夜ごはん

ひと口目を食べた瞬間、
「ああ、わたし、ちゃんとおなか空いてたんだな」って、
ふいに気づくことがあります。

そのとき、
ただ空腹が満たされる以上に、
心の中の輪郭がふっと戻ってくるような感覚があるんです。

「今日のわたしはここまでがんばった」
「今夜はここまででいい」
──そんな風に、自分と目を合わせるような時間。

台所に立ったこと、
切ったこと、
温めたこと、
味見をしたこと、
器に盛ったこと。
それらすべてが、
自分に「おつかれさま」と言うための、静かな儀式だったのかもしれません。

わたしにとって自炊は、
ときどき、自分を取り戻すための夜の合図になります。

結び|……おかえりなさい、自分

もし今、
疲れているのにまたごはんを作っちゃった……
って、肩を落としている夜だとしたら──

大丈夫です。
それは、「動いてしまったこと」が悪かったんじゃなくて、
あなたなりの休み方だっただけなんです。

ときには、火を使わずに休んで。
でもときには、手を動かして安心を得て。
そんなふうに、自分の選んだ夜を信じてあげてくださいね。

……ほら、鍋から上がる湯気のむこうに、
ちゃんと“わたし”が戻ってきている。

今日の台所にも、灯りがともっている。
おかえりなさい、自分。

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