「今日はもう、なにもしたくない……」
そう思った夜に、冷蔵庫のなかの残り野菜と味噌を取り出して、
ゆっくりとお味噌汁を作ったことがあります。
凝った具材もだしもなくて、
大根と油揚げだけ。
それでも、一口目の湯気を吸い込んだ瞬間に──
ほっと涙が出そうになるくらい、心がほどけたんです。
わたしにとって、お味噌汁はただの食事じゃなくて、
心をもう一度“ここ”に戻すための、静かな儀式。
誰かが作ってくれたものでなくてもいい。
特別なものじゃなくていい。
自分の手で、自分のために作ったその一杯が、
「まだ大丈夫だよ」って、そっと支えてくれることがあります。
──今日は、そんな
“味噌汁に救われる”という感覚について、
静かに見つめてみませんか?
目次
なんでもない味が、心に効く日
味噌汁の味って、不思議です。
とびきりおいしいわけでもないし、
外食で頼むような“ごちそう”ではない。
それなのに、ある日ふいに──
その、なんでもない味が、心にじんわり染みてくることがあるんです。
冷えた部屋で、ひとり分だけ作った夕飯。
仕事でぐったりして、疲れ果てた帰り道。
誰にも会わずに過ごした休日の夜。
そんな日、何も考えずに鍋に水を張って、
味噌を溶きながら、湯気が上がってくるのをぼんやり見つめていると、
「なんだか、これでいい気がしてきた」──
そんなふうに感じることがあります。
きっとそれは、
この味噌汁が“誰かの目”じゃなく、“自分のためだけにある”から。
見栄えも、栄養バランスも、誰かにほめられる必要もない。
それでも、いや、
だからこそ、心がゆるむんです。
味噌の香り。
湯気の温度。
器を両手で包んだときの、じんわりした温かさ。
それら全部が、言葉も理屈も超えて、
「今日、わたしはここにいたよ」って、
小さな肯定をくれるような気がします。
なんでもない味。
だけど、それが、いちばん心に効く日もあるのです。
湯気と匂いで涙が出そうになる瞬間
お椀から立ちのぼる、あの湯気。
湯気に混じってふわりと届く、味噌の香り。
それにふと触れた瞬間、
涙が込み上げてくるようなときがあるんです。
何かがつらかったとか、悲しかったとか、
言葉にできる理由はないかもしれません。
でもその一瞬、
「自分のなかのなにかがほどけた」と、
身体の奥のほうで静かに気づくのです。
それはきっと、
懐かしい記憶に似た安心感なのかもしれません。
遠い昔、誰かが作ってくれたお味噌汁。
寒い朝、食卓に並んでいた湯気。
今は誰も見ていないキッチンで、
誰にも頼らず自分で味噌を溶かしているのに、
なぜか“守られているような気持ち”になるのは、
湯気が、心の奥にしまってあった感情をそっと撫でてくれるからかもしれません。
──言葉にできないけれど、確かにあるもの。
それが、味噌の香りといっしょに、
ほんの少しだけ溢れ出してくる。
「つらかったね」
「がんばったね」
そうやって、
誰の声でもない、
“お椀のなかの静かな声”が、
わたしの心に触れてくれる気がしたんです。
誰かの味噌汁じゃなくていい
「おふくろの味」
「おばあちゃんの味」
──そう聞くと、
味噌汁には“誰かのために作ってもらうもの”というイメージが
いつの間にか定着していた気がします。
でも、
誰かの味噌汁じゃなくても、わたしの心は救われていい。
むしろ、自分でつくるからこそ、
その湯気は“今のわたし”にちょうどよくて。
少し濃いめの日もあれば、やさしい薄味の日もある。
具がある日も、ない日もある。
そして、
そういうふうに**“まちまちなわたし”を、
そのまま包んでくれる器の中身**が、
味噌汁という存在なのかもしれません。
誰かのレシピじゃなくていい。
正解も、理想もいらない。
今日のわたしにとっての「ちょうどいい」を、
自分の手で、そっと差し出してあげる。
それがたとえ、
インスタ映えしなくても、
冷蔵庫の残り野菜だけでも──
その一杯には、たしかに“わたしのやさしさ”が注がれている。
だから味噌汁は、
誰かに作ってもらわなくても、
「誰かの味」でなくても、
ちゃんと、心に効く。
だってそれは、
“わたし自身が、わたしの味方になった証”だから。
具だくさんでも、シンプルでも
お味噌汁って、どんなかたちでも成り立つんです。
冷蔵庫にいろんな野菜がある日は、
にんじん、ごぼう、じゃがいも、きのこ──
それらをたっぷり入れて“具だくさんの幸せ”を感じる。
でも反対に、
「もう、何もしたくない」っていう日は、
お椀に大根を薄く切って入れるだけでも、
お味噌をちょっと溶かして、ふうっと息を吐くだけでも、
それだけで、心がふと軽くなることがあるんです。
味噌汁のいいところは、
「ちゃんとしなくても成立する」ということ。
料理としての“完成度”よりも、
それをつくるときの気持ちや、
器を手に取るときの温度のほうが、
きっと大事なんですよね。
お味噌汁って、
整えるための料理じゃなくて、
“整っていない自分をそのまま受け入れる料理”なのかもしれません。
具材があってもなくてもいい。
だしを取らなくても、
インスタントの粉末だってかまわない。
その日の気持ちに合わせて、
その日の自分にやさしくつくってあげられたなら、
どんなお椀でも──
それは、救いになる一杯になる。
夜の味噌汁は“静けさ”の味
一日の終わりに、
静かにお味噌汁をすする時間が、
わたしにとっては“今日を終わらせる合図”になっています。
夜ごはんがしっかりしていなくてもいい。
おかずが一品だけでもいい。
でも、お味噌汁があると、それだけで“ひと区切り”つけられる気がするんです。
湯気が立ちのぼるその向こうに、
今日一日がうすくほどけていくような感覚。
味噌の香りが、
心に絡みついていた小さな不安を
すこしずつ溶かしてくれる。
言葉はなくても、
テレビもスマホもなくても、
器を両手で持って、そっと口をつける。
その“静けさ”が、
わたしの気持ちをなだめてくれる夜が、
たしかにあるんです。
夜の味噌汁って、
朝のそれよりも、
すこし温度がやわらかくて、音が遠くて、
火種がほのかに灯るようなやさしさがある。
まるで、「今日もおつかれさま」って
誰かが肩を叩いてくれているみたいに。
だからわたしは、
どんなに疲れていても、
できれば一杯だけでも味噌汁を作りたくなってしまうのかもしれません。
味噌汁の記憶が灯をともす
わたしたちは、
味や香りに、感情の記憶をそっと重ねています。
お味噌汁の湯気に包まれるとき、
それは単なる“食事の時間”ではなく、
過去のわたしに出会いなおす時間になることがあるのです。
あの日、ひとりで泣きながら飲んだ味噌汁。
実家で、言葉もなく並んで食べた朝の食卓。
友だちと分け合った、ちょっとしょっぱい一杯。
──記憶に残るのは、どれも「すごく美味しかったから」ではなくて、
“その時の気持ちが、味に宿っていた”から。
味噌汁は、
なにかを祝うためのものじゃない。
誰かに見せるためのものでもない。
だけど、
なにもなくても、心をそっと抱えてくれる食べもの。
毎日じゃなくてもいい。
思い出すように、ふと作ってみるだけでもいい。
そして、お椀のなかにある湯気の向こうに、
「今のわたしも、ちゃんと大切にしていいんだよ」って
過去の記憶が、そっと灯をともしてくれるような──
そんな時間が訪れることがあるのです。
だから、
今日、あなたが手にした一杯の味噌汁も、
いつかの記憶のなかで、
やさしく光を放つ日がくるかもしれません。