「……なんでこんなことで、泣いてるんだろう」
そう思ったのは、包丁を握ったまま、気づけばキッチンの床にしゃがみ込んでいたときでした。
誰かに怒られたわけでもない。
大きな失敗をしたわけでもない。
でも、ずっと張っていた糸がふっと緩んで、静かに崩れ落ちるように涙が出てきたんです。
あの時、火をつけたばかりの鍋の音が、ずっと聞こえていました。
その音だけが、現実との細い橋のように、わたしを繋ぎとめていた気がします。
キッチンは「働く場所」でも「作業場」でもない。
ときに、感情の避難所であり、静かな再起動の場所でもある。
そんなことを、わたしはあの日、涙のそばで初めて知りました。
目次
泣ける場所ってどこにありますか?
部屋の中に、「泣いてもいい場所」ってあるでしょうか。
リビングでは誰かの視線を気にしてしまう。
寝室では、涙と一緒に疲れが混ざってしまう。
お風呂場は、湯気の中で息がつまることもある。
わたしにとって、いちばん静かに泣けた場所が、キッチンでした。
洗ったままのまな板。水気の残る布巾。冷蔵庫から聞こえる、低くゆるやかな音。
誰にも見られず、誰も入ってこない、ほんの数分のひとり空間。
そのなかで、言葉にならなかった疲れや寂しさが、するすると出てきたのです。
涙の理由は、たぶん1つじゃなかった。
誰かの言葉、今日の失敗、自分の不甲斐なさ、眠れなかった夜…。
いろんなものが溜まって、溢れる場所を探していたんだと思います。
そしてキッチンは、それを受け止めてくれた場所だった。
料理をしようとする自分の手と、泣いている自分の気持ち。
どちらも本当で、どちらも否定されない場所。
それが、わたしにとってのキッチンの始まりでした。
キッチンという誰にも邪魔されない空間
キッチンって、本来は「仕事の場」なのかもしれません。
食材を切って、火を入れて、後片づけまで手を動かし続ける。
効率よく回すことが求められたり、家族のために献立を考えたり。
でも、
ひとりで立つキッチンは、誰のためでもない空間になります。
とくに夜。
ごはんを作るか作らないか、決めかねたまま冷蔵庫を開ける。
まな板の上に食材を置くけれど、手が止まる。
その時間すら、誰にも邪魔されない。
SNSの通知も、仕事の未読も、洗濯機の音も気にならない瞬間。
「ここに立っているだけで、わたしはわたしを取り戻せる」
そんなふうに思えたのは、何度目かの泣いてしまった夜でした。
誰かに話せない感情や、正体不明の疲れがあるとき、
布団の中じゃなく、リビングのソファでもなく、キッチンに逃げるように向かう。
そして静かに、湯を沸かす。
切りかけの玉ねぎを戻す。
たったそれだけの動きが、自分を戻してくれる感覚になるのです。
キッチンは、ただ料理をするだけの場所じゃない。
わたしの心が、安全に揺れていい場所。
そのことに、暮らしの中で気づけたとき、
「生きてていいんだ」と、小さく思えた夜がありました。
感情があふれる瞬間に、何が起きているのか?
わたしたちは、感情がコントロールできなくなる瞬間を「崩れる」と表現します。
でもほんとうは、それは「崩壊」ではなく、「解放」なのかもしれません。
ずっと我慢していた。
うまくやらなきゃと思っていた。
誰にも頼らず、自分で背負おうとしていた。
そんな積み重ねの上に、小さなきっかけが乗っただけ。
それが、感情があふれる瞬間です。
・冷蔵庫の中に、予定していた食材がなかった
・水切りかごがいっぱいで、皿を置く場所がなかった
・ふと、誰かの言葉を思い出した
そういう小さなズレに、溜まっていた何かが反応してしまう。
涙というかたちで出てくるとき、感情はようやく「言葉を持つ」のかもしれません。
「つらいです」
「だれか、気づいて」
「わたし、疲れてたんだ」
言葉にはできなかったけれど、涙は全部、知っていました。
そして、それを受け止められる場所が、わたしにとってはキッチンだったのです。
まな板の木目、コンロの熱、足元の冷たさ。
どれも現実の感触で、そこにいるわたしを確認させてくれる。
感情は「あふれた」んじゃなくて、「あらわれた」んです。
それに気づけたとき、涙の意味が少しだけ変わりました。
涙を流したあとの台所は、少しだけ澄んで見えた
泣き終わったあと、ふと立ち上がって、キッチンを見渡しました。
ほんの少し前まで、ぼんやりとにじんでいた景色が、
なぜか、すこし澄んで見えたんです。
お皿の重なり。
濡れた布巾。
壁に反射する、湯気と灯り。
どれも変わっていないのに、わたしの視界だけが、静かに整っていた。
不思議ですよね。
「整えなきゃ」と必死だったときは、何も見えていなかったのに。
「泣いてもいい」と許したときに、視界がひらけていく。
あの瞬間、わたしは初めて自分の内側を感じた気がしました。
キッチンって、たくさんの役割がある場所です。
食事を作る場所、清潔に保つ場所、効率を問われる場所。
でもそのどれでもない「感情が還ってくる場所」として、
自分の中に深く刻まれたのが、この日のキッチンでした。
冷たいシンクに指先をそっと添えると、
少し前の涙が、まだ体のどこかに残っている気がした。
でもそれは、ただのつらさじゃなかった。
わたしが「わたしでいるための温度」だったのだと思います。
それからというもの、
感情が揺れる日ほど、わたしはキッチンに立ちたくなるようになりました。
泣いても大丈夫な空間を自分に許す
わたしはずっと、「泣くのは弱いこと」だと思っていました。
誰にも見せちゃいけない。
感情は隠すもの。
それが大人になるってことなんだって。
でも、キッチンで静かに泣いて、
そのあとにもう一度、火をつけた自分を見て、
ほんの少しだけ、何かが変わった気がしました。
泣いたあとでも、わたしは動ける。
それは強がりでも、開き直りでもなくて、
「大丈夫って言っていい」って、自分に許せた感覚です。
感情があふれることも、火を止めてしまうこともある。
だけど、「また火をつけていい」と思える場所があるなら、
暮らしはきっと、何度でも始められるんだと思います。
キッチンは、結果を出す場所じゃなくて、
わたしがわたしでいるための「余白」をつくる場所になっていったんです。
湯をわかす音。
換気扇の低い音。
窓の外から入る風。
そして、涙のあとの静けさ。
すべてが「大丈夫」と語りかけてくるような、そんな空間。
感情を締め出すんじゃなくて、
そっと隣に置いておけるような空間を、
わたしはキッチンの中に見つけたのかもしれません。
キッチンで泣いたあの日から、暮らしが変わった
それからというもの、
わたしのキッチンは、少しずつ姿を変えていきました。
便利さを追い求めていた頃よりも、
なんでも揃えたくなっていた頃よりも、
いまは「余白」が多い。
お気に入りの湯のみが一つ、
よく使う菜箸が一膳、
やわらかい布巾が、静かに乾いている。
感情をしまい込むのではなく、そっと隣に置いておく。
そんな暮らし方を、キッチンの中で覚えていった気がします。
あの日の涙は、悲しみでも敗北でもなくて、
わたしを取り戻すサインだったのかもしれません。
料理をするたびに、自分の手の動きに気づくようになった。
何かがうまくできなくても、「それでもいい」と言えるようになった。
火を止めたあとも、しばらくその場に立ち止まっていたくなるようになった。
キッチンで泣いてしまったあの日から、
わたしの暮らしは、少しずつ変わりはじめたんです。
「ここに立つわたし」は、ちゃんと生きてる。
そう思える日が、増えてきました。
だから今日もまた、湯をわかします。
小さな音と光の中で、静かに、やさしく。
誰にも見られない場所で、わたしはわたしを続けています。




